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著書名 歴史とは何か (岩波新書)
著者名E.H. カー
出版社 岩波書店
ASIN 4004130018
装丁 新書
価格 ¥ 819
感想文概要:「いまを生きる」ための戦略的技術としての歴史研究・歴史学習
本文: E.H.カーの著作で、日本でとても有名な著作。自分も高校生の時に買って、何度も挑戦してはわかりにくくて放棄し、また読んでの繰り返しだった1冊。
 今改めて読み返してみると、歴史の持つ個人的効用、社会的効用がわかり始めたような気がする。「歴史は現在と過去の対話である」という言葉がここではとても印象的に使われているが、じゃあなぜそんな対話をする必要性があるのか。
 今の社会で広範に流布している風潮は「いまを生きよう」や、「二度とないこの瞬間を大事に生きていこう」といったものが有力に見えて、そこには歴史を学ぶ必要性・必然性は欠落しているし、歴史への意識はかえっていまを生きる上で邪魔な障害物でしかないように思わせる。じゃあなぜ、歴史を学ぶ必要があるのか。
 それは、いまを生きるときの「いま」は歴史的に構築されたもので、何らかの勢力が特定の意図の下で設計した結果として「いま」が「あるがまま」にあるという事実を、歴史は学ぶ者に教えてくれるからだ。この議論は本書の中に収録されている。そのことこそが歴史を学ぶべき最大の理由なのだと思う。毎日毎日、毎週毎週、毎年毎年「いまを生きる」ばかりでは、自分たちがいる位置について知ることは出来ないし、自分たちを取り囲んでいる諸々の制度の仕組みについても知ることが出来ない。「いまを生きる」精神を要求しているのは、例えば今の産業システムであり、それを前面に立って支えているマスメディア産業であり広告産業であり、そこでは物事のもつ歴史性を隠蔽し、また歴史自体を商品にすることによって人々を永遠に「いまを生きる」状態にとどめようとする傾向をもつ。そんな状態を食い止めるのが、現状の持つ問題性を明らかにする戦略としての歴史研究だ。

 そういう風に考えれば歴史研究は実はとても過激なインパクトを齎すことの出来る分野でもあり、普通に生きている人々にとっても「いまを生きる」際の基本的なリテラシーともなり得る。この著作は、そんな視点からの読解にも耐えうる、中身の濃い1冊です。

概要:「主観」という言葉のひびきが悪いものであるかのような誤解をとく
本文: 大学では西洋史を専攻した私。史学科の課題図書の筆頭はこのE.H.カー『歴史とは何か』だった。そしてカーの決めゼリフは「歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話である。」(p. 40)
 でもこれだけでは、カーの真意は伝わらないように思うので、私の言葉でカーの代弁をしてみたいと思う。
 一般的には、歴史的な事実というと、考古学や日本史の遺跡発掘のイメージで「客観的事実」を宝探しの宝を探すように「発見」し、それを記述したら歴史が出来上がり、という感じがするのだが、そうではない、とカーは言いたいのである。そして「主観的」という言葉が何か悪いものであるかのように考えられがちだが、そうではなく、歴史家の「判断」があって初めて「歴史的な事実」として認められるのだということである。そうすると主観的な判断が入るので「客観的事実はない」「不変の真理はない」と嘆いたり、怒ったり、ぐれたり、すねたりしてしまう人がなぜがいる。それが学問的態度ではない、って言うことなのだ。私たちができることは、限りなく近づこうという態度で臨むことだけだ。そしてあくまでも仮説として設定することに意味があるのである。「客観的事実」を設定すること、「不変の真理」を設定すること、それに意義がある。有るかどうかは問題ではない。(愛も神様もそういう存在だと私は思っています。)
 画家の安野光雅は数学者で水道方式で有名な教育家でもある遠山啓と対談し、以下のように語っている。「主観」という言葉のひびきが悪いものであるかのような誤解をとくこと。これが科学教育の第一歩だと思います。

●安野:ひとつの目的に到達するための一種の方向感覚のようなものはありますか。(中略)
●遠山:構想力といいますか、これは数学ばかりでなく、科学ぜんぶがそうだと思います。科学をあまり知らない人は、科学というのはわれわれの世界を写真みたいに写す学問だというように考えている。そういう人が多いのですが、実際は写真みたいな写し方ではない。むしろ、絵に近いです。不必要なものは大胆に捨象してしまう。重点的な点だけつかみだして見ていくんですね。だから、科学的な精神というのは、なにかおのれをむなしくして、写真のカメラみたいにならなければいけないように考えている人が多いようですが、実際は、そうではない。非常に主観がはいるわけです。
『空想茶房』(平凡社1986年 <初出> 美術と数学との対話『遠山啓との対話 教育の蘇生を求めて』太郎次郎社1978年)
2002-11-9記す

概要:歴史家の本分は何か
本文:歴史哲学の古典的名著。
歴史事実、歴史叙述、法則、進歩などなど、歴史哲学の重要な問題が簡潔にまとめられている。
歴史哲学の最初の一冊にも薦められる本であろう。

以下概要

歴史は客観的に与えられたものではない。
なぜなら、歴史家は無数にある過去の事実の中から、何個かの事実を選び出して叙述するものだから。
また、おのおのの事実同士をどのような関係で結びつけるかも、歴史家の主観や現在の価値観が入り込むものである。
しかし、歴史は好き勝手に作っていいものではない。歴史家はやはり過去の事実にもとづかなければいけない。
だから「歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話なのであります」(p40)

歴史家の中には、歴史事実をすべて個人の力に帰してしまうものと、すべて歴史の流れに帰してしまうものとある。
しかし、そのどちらもが誤りである。歴史は、その両方によって動かされているのだから。

歴史は科学であり、歴史家は史実という特殊的事例から一般的事例を引き出し、現在の我々に警告や教訓を与えていくものである。
歴史事実の因果関係もまた、そのような地平において設定される。
歴史の外側に完璧な未来や絶対的法則を設定するのは誤りだが、歴史をカオスとして捉えるのも誤りであり、我々は歴史の教訓を学び、未来へと生かすべきなのだ。


上記したように総じてよく出来た書である。
しかし、歴史をあそこまで科学にしてしまうのには疑問も残る。
確かに歴史を科学として機能させることは出来るし、そういう側面も歴史は有しているが、それだけが歴史ではないように思われる。
我々が歴史の本を読んで楽しんだりするのは、過去から教訓を学んで未来へ生かすという目的だけだとは到底思えない。
歴史には、そうした科学以上の深みがある。
そこら辺が、本書ではかけてしまっているように思えた。


なお、訳については、確かにときどき変な文章はあった。
例えば「第二点は、歴史は、なぜ個人が「彼ら自身の気持ちから見て、このように行動したのか」を研究する、というのですが、一見したところ、これはひどく異様に思われますけれども、私の感じでは、他の敏感な人々と同様に、ウェジウッド女史もぞ文が説教していることを自分では実行していないようです。」(p67)は、わかるといえばわかるのだが、やはり読みにくい文章だと思う。
しかし、こうした文章はそんなに多くはなく、訳で困ったりするようなことはほとんどなかった。
なので、訳の問題はそこまで気にしなくてもいいように思われる。

概要:歴史研究者志望者と歴史教育者は必読書
本文:本書は「歴史学」は如何なるものかについての論考である。
歴史学研究の基礎となる名著は本書以外にもあるが、
本書は多角的な視点で史実や研究方法及び史料批判の方法、
そして思想・哲学分野も含まれており、
歴史研究者を目指す者や教職課程で歴史学を学ぶ学生は、
必読の書と言えるであろう。

概要:『水準器的意義』
本文: 歴史・宗教・民族。これらはすべて琴線に素手で触れてしまう危うさを秘めているため、どうしても扱いにくいと思うのは、小生だけではあるまい。ことに「歴史」という言葉を目にする時、その意味は、「事実」、「まつわる感情」、「歴史という名の履歴の見方」等々、完全にとは言わぬまでも、分割すべきものが、ないまぜとなっている気がする。本書は、小生が示したもののうち、「歴史という名の履歴の見方」つまり「歴史哲学」について再考を促す書物である。
 著者E・H・カーは、1962年の本作出版時、トリニティ・カレッジのフェローであった。この著作はケンブリッジで1961年に行われた連続講演を基に仕立て上げられたもので、とても読みやすく、問題点がよく分かり、また原注も丁寧である。

 著者のスタンス(視点)は、あくまで冷静・穏健でありながら厳しい。それは『歴史を研究する前に、歴史家を研究してください』そのためには『歴史家の歴史的および社会的環境を研究して下さい』という主張に現れている。つまり、歴史は、歴史家を通じて届けられる『社会的産物』(3点とも同書p61より)であることに注意せよ、という事で、まさにこの点を意識しつつ、目次に掲げられた6項目について述べているのである。
 歴史哲学というと、へ―ゲルなどに見られる「史観」という看板のもとに、ややもすると、強引な押し売りが目に付くが、本書は、たとえそのような事が後に明らかになったと仮定しても、極めて地に足のついた秀作であると、小生は感じた。

よって推薦したい。

なお現代においてのスタンスは、『岩波講座 世界歴史 第一巻』に手際よくまとめられているので、こちらも参考になる。

著書名 愛とは、怖れを手ばなすこと (サンマーク文庫 E- 45)
著者名ジェラルド・G・ジャンポルスキー
出版社 サンマーク出版
ASIN 4763184431
装丁 文庫
価格 ¥ 570
感想文概要:この本の実践が難しい人に
本文:この本に書かれていることを実践したいけれども、できない方に。
怖れを手放す アティテューディナル・ヒーリング入門ワークショップがお勧めです。
実際にどのようにしていけば、この本の内容が実践できるか、よくわかります。

概要:素晴らしい事を言ってはいるけれど・・・
本文: 怖れではなく許すこと、与えることに集中し愛すること、誰も人を裁くことはできないこと・・・まるで聖書のような、とても素晴らしい事を言っている、と思いました。

 しかし、本当に聖人君主の様な考え方と、スッとは入って来にくい英語の訳で(原書のニュアンスを大事にしたのでしょうが)共感することは出来ませんでした。どんなに素晴らしいことでも、心に響かなければ、行動を変えようとは思えません。
 本とは出逢う期間も大切だと言いますので、私には10年早かった本だったかも知れません。

 ”現在の私”の感想としては、この一冊を読む時間、もっと他の分かり易い自己啓発本に使いたかったな、というところです。

概要:本当の癒し
本文:ギスギス生きてしまいがちな現代の私たちに、
 「本当の癒しとは、安らぎとは何か?」
を教えてくれる優しい本です。

読めば必ず暖かいものを感じて、ガチガチだった心と体が柔らかくなるのを感じられると思います。

素晴らしい本でした。

概要:自己啓発に
本文:見えるモノは自分の心が決めたことが反映されている。
いままでの視点を切り替えることで、自分の人生が豊かになります。

「この本を読んででホントによかった」

そう思える一冊です。

自分の感情とは一生つきあわなければいけません。
だからこそ、幸せになる選択をしたいモノです。

概要:現代における多くのセラピーの基礎となる考え方
本文:10年間スリーインワンというセラピーで自分自身を見つめ続け、多くのクライアントさんとのセッションの中で気づいてきたことが、すべて網羅されています。

「愛」とは人間の本質そのもの。

その周りには「恐れ」があり、普段は愛である存在であることを人は忘れてしまう。

そして、許しの定義がとても明確です。

ゆるしとは、相手が自分を傷つけたという誤った解釈を正すこと。

それは、自分が上に立つわけでもなく、気に入らない相手に対し我慢することでもなく、大目に見ることでもないのです。

幸せとお金の専門家である本田健さんは自らが癒しや許しの体験を多くしています。

そのお陰でジェラルドさんが伝えたい言葉を的確に日本語に訳すことができるのでしょう。

何度も読み返したい1冊です。その度に新しい気づきがもたらされそうです。

著書名 生命とは何か―物理的にみた生細胞 (岩波文庫)
著者名シュレーディンガー
出版社 岩波書店
ASIN 4003394615
装丁 文庫
価格 ¥ 630
感想文概要:理論物理屋・シュレディンガーの『地頭力』が遺憾なく発揮された名著
本文:1944年に本書が書かれた時、遺伝子のミクロな分子的構造など少しも分かってはいなかったのです。そんな「目に見えないもの」の正体を捉えるために、物理屋はどの様にアプローチするのでしょうか? 本書に理論物理屋・シュレディンガー教授が果敢に挑戦した思考の軌跡が記されています。いま流行りの言葉で言えば『地頭力』が遺憾なく発揮されています。メンデル遺伝学と熱統計力学・量子力学の知識に基づき、エンリコ・フェルミ流の「封筒裏の計算」で(半)定量的評価・推定を行った結果、「遺伝子は安定な構造をもつ一千個程度の巨大分子であり、それは非周期性の結晶というに相応しいモノである。(「非周期性」=暗号文中の文字のような原子配列、「結晶」=原子間の強い結合)」という結論に至ります。これを読んで多くの物理屋さん(クリック、ウィルキンス...)が生命科学分野へ誘われ、実際にDNA構造が決定されるに至った訳です(1953年)。このDNA構造がシュレディンガー氏のイメージ通り、という処が凄い処ですね。

新書版(品切中)と文庫版の違いは、訳者・鎮目恭夫氏が文庫本に新たに「あとがき」を書かれている点にあります。教科書には普通載らない(載せられない(-_-);;)シュレディンガー氏の逸話も挿入しつつ、「生命とは何か」の哲学的な側面の再解釈を披露しておられます。(この"あとがき"は立ち読みできる分量です)

概要:やっと手に入った!読んだ!感動した!
本文:絶版新書に意味不明のプレミアム価格がついていた希代の名著がやっと手に入りました。
それも630円で。感動です。

一気に読みました。
すげえ本です。

お断りとして、私は純文系です。
それでも、世界の森羅万象が知りたい、ありがちなゼネラリスト志向な純文系です。
ですから、この本の言うところが、今現在の最先端科学知識にどの程度外れてしまっているのか、厳密なことはいえません。
でも、これまで読んできたどの量子論の本よりも、この古い本のほうが「本質」が分かった気がします。

「何故、人間は、と言うか細胞は、原子に比べてこれほど大きいのか?」
この本が呈示するほど明快な答えは、なかなかないですよ。

ほかにも突然変異の不連続性(変異前と変異後の個体の中間的個体は全く存在しない)の理由が、量子論の量子飛躍によって見事に説明されたり、
もう、「本当のこと」が知りたい自分にとっては、目から鱗落ちまくりでした。

でも、結局、科学知識に限界のある自分には、シュレーディンガー氏が言う、
生きている物のみに働いている、「今までに知られていない物理学の別の法則」というのが、何を言わんとしているのかよく分かりませんでした。

現代物理学は、生命の原理も、突き詰めていけば非生命に働いている単純な物理法則により完全に説明できる、というスタンスなのだと思います。
でも、もしかしたら、シュレーディンガー氏は、また別のことを考えていたのかしら…などと、妄想はふくらむばかり。

とにかく、このすばらしい一冊を存分に楽しもうと思われる私と同じ純粋文系諸兄の皆さん。
まず、この本の前に、PHP文庫の「量子論を楽しむ本」を読みましょう。
そして、シュレーディンガー氏が当たり前のように述べる「量子論」という不可思議な世界を少し知ったかぶった上で、この希代の名著にあたりましょう。
そうでないと、もったいない気がします。
老婆心ながら…



概要:シュレーディンガーの挑戦
本文: 科学書の多くは科学の発展にともないその価値を失うものがほとんどである。しかしその中でも価値を維持するものは存在する。新書、文庫と新装版が登場している本書はよい例であろう。
 さて著者のシュレーディンガーはシュレーディンガー方程式の発見者としてあまりにも有名であるが、量子論への懐疑(有名なシュレーディンガーの猫)から一線を退いた人物である。本書で彼は統計力学的なモデルで「生命」を説明しようとしている。詳細は省くがシュレーディンガーによれば「生命」はつねに崩壊に立ち向かっている。こういった描像に感動すら覚える。
 もちろん本書で提示された「負のエントロピー」の概念など現在は否定されている要素も多い。しかしロジャー・ペンローズなど物理的な描像(ペンローズは量子論的モデルを用いている)も「生命」に迫ろうとする挑戦はいまだに続いている。そういった挑戦が続く限り『生命とは何か』の価値が失われることはないだろう。

著書名 「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤
著者名下條 信輔
出版社 講談社
ASIN 4061494392
装丁 新書
価格 ¥ 777
感想文概要:認知神経科学のよい入門書。
本文:認知神経科学の知見をきちんと受けて書かれた入門書。
入門書ゆえ不明瞭だったり、説明不足だったり、論理の飛躍も散見されるが
概して高いレベルにあると言える。

「来歴」という著者の概念は、身体、環境、個体の経験、遺伝子的要因、さらには種の歴史まで含んでしまうあまりに広い概念。
科学的研究に有効に活かすには、さらなる改良が必要だろう。

概要:知覚の錯誤の分析を入口として、「心を知る」可能性を論じた本
本文: 著者は、人間の精神(心や意識)を、脳科学などの科学的方法と知識を拠り所としてどこまで可能なのか試みている。その試みの背景には、新たな人間科学を追及する必要性と価値を認識した著者の思想があるように思えます。
 知覚の錯誤を入り口として、身体から脳へ、そして脳と個体を離れた環境との関係へと対象範囲を広げて行く方法は理解しやすく納得性があります。そして最後に心を知る可能性が論じられていますが、そのことについて、著者は次のように述べています。次第に外堀を埋めて行くと、旧来の科学的方法では無意識を対象とすることは出来るかもしれないが意識を対象とすることは出来ないのではないか、と。
 一つのキーワードとして「脳の来歴」という概念が提示されていますが、これは身体と脳と外部環境が時空において総合されているという考え方で、デカルトが提出し近代の科学的態度の基礎となっている心身二元論を超える可能性を示唆しています。倫理や社会についても言及されていますが、人間という種は、人間科学の本来性を追及して行く限りにおいて、避けることの出来ない課題を解決し続けていくことが出来るのではないか、という希望が見えてくるように思えました。

概要:明晰だが難解
本文:前著『サブリミナル・マインド』同様、論旨は明晰だが、新書としては内容が高度で難解です。
「脳の“来歴”が「錯誤」(不適応)と「正解」(適応)を定義する」というテーゼを理解する事が肝。
良質の科学的思考が良質の哲学的思考に自然に接続されている稀有な例だと思う。
脳と心の科学は必然的に哲学的問いを招き寄せざるを得ないが、科学から哲学へと射程を延ばしつつ
胡散臭さを感じさせないことに成功している例はあまりないように思える。
失敗している例なら、日本の自称脳科学者某のクオリア論などいくらでもあるのだが。。
「意識」に直接科学で食い込むのは困難なので、まずは客観的に扱いやすい「無意識」を科学的に究明する
という、搦め手から責める方針が的を射ているのだろう。
堅実な研究と思考の積み重ねこそが既成の哲学的パラダイムをも引っくり返すパワーを持つのだ、
ということを改めて確信させられる。
サールらの「心の哲学」から精神分析との関係にも若干言及され、最終章では倫理までも論じられているが、
さらに哲学的関心を拡げるとすれば(メルロ・ポンティやハイデガー、レヴィナスをも含めた)
現象学系の哲学との擦り合わせ及び批判的再検討が考えられるだろう。
もちろん既にやっている哲学研究者はたぶんたくさんいらっしゃるだろうが、
認知科学が哲学に不可逆的な進化を強いることこそが重要な点。
端的に言えば、認知科学を正確に理解していない現象学者は淘汰されてしかるべきだということ。
それが科学の力だと思うし、まぁ暴力性かもしれませんが。

概要:倫理的に
本文:最終章で人間の倫理的な問題に触れているのがとてもよかった。意識の問題を突き詰めるとき、人間とは何かということに突き当たる。あるいは、どこまでが人間なのかと。サブリミナルマインドでの著者の楽観的な見方とは裏腹に、こちらの本は何か受け入れがたい、でもそういうことなんだろうかという見方を見せられた気がした。

概要:心が広がる!
本文:この本を読んで、最初に浮かんだ言葉は「心は孤立していない」ということです。
プロのバーデンダーが同時に数百の注文を記憶できることの例などで、記憶についての認識が変わりました。そして、意識が自分の脳や身体の中だけにとどまるものではなく、環境に広がっていくということが再認識できます。シンクロニシティも、この環境と自分がつながっていると考えると納得いきます。
この本を読んだ後に散歩したとき、外の世界が自分の一部に感じられ、幸せな気分になれました。下條さんが、この本の裏のストーリーとした「心が世界との関係を取り戻し、そこへと還流するまで...」を少し感じられた気がしました。

著書名 「日本」とは何か 日本の歴史00 (講談社学術文庫)
著者名網野 善彦
出版社 講談社
ASIN 4062919001
装丁 文庫
価格 ¥ 1,208
感想文概要:「日本」国家の徹底的解体
本文: 本「日本の歴史」シリーズの前提として、「日本」という国民、国家、民族の自明性を徹底的に議論し、解体し、バラバラにしていく。網野史観史観の集大成といえる。慣れていない人にはいささか衝撃的な見方であふれているだろう。それはそれで大変刺激になるし、一度触れてみるのはよいことであろう(少なくとも多くの研究者にとっては)。
 ただ、すでに他レビュアー氏に指摘されているように、いささか度を越したというか、政治的・学問的な中立性に疑問のある主張が垣間見られる。受け入れるべき点は受け入れ、検討すべき点は検討すべきであり、慎重な態度が求められる一冊である。

概要:大変面白いです。ただし著者の個人的思想以外は。
本文:網野氏渾身の作であるのは間違いない。取材量とそれに要した著者の人生に占める時間を思うと敬意を表する。特に「百姓とは農民ばかりではなく海民等様々な職種を包括する呼称だ」や「戦後歴史研究に対する反省」などは傾聴に値する。

ただカカシ男様もご指摘の通り、著者のあまりに偏った政治的視点には正直私も違和感を感じずにいられなかった。晩年の作だけあって「焦り」があったのでしょうか。
「何をそんな必死になってある意味感情的・激情的に書かなければいけないのだろう。もう少し力を抜いたら?」と言いたくなるのも事実。

やはり自らの戦後教育の「誤り」に対してのこういう形で「正当化」する道しか選べないのも人間の愚かしさなのかもしれない。それにしても昭和時代、こんな人が教壇に立っていたんだなあと戦後日本を振り返るにはいいのかもしれません。
上のような点を除けば、日本の歴史の素人でも内容はとても楽しく読めました。

蛇足ですが井沢元彦氏著「怨霊と鎮魂の日本芸能史」で私が書いたレビューで一部「アマゾン」により【意図的に削除】された箇所があります。



概要:ヌエのような本
本文:結論から言えば良書である。進歩史観や旧来の歴史学に異議を唱え、新しい歴史の見方を生涯にわたって提示してきた著者の思考のいわば凝縮版といっていい。「網野史学」の入門版として「日本の歴史をよみなおす」とならんで持っていたい。ただし、後期の著作に共通するが読む人に強い違和感を抱かせるもの事実である。
それは名(な)としての日本と実(じつ)としての日本に対する著者の価値観のあまりの乖離である。もちろん著者の愛情は徹底的に後者に向けられている。では、前者に対してはどうか?言い換えれば日本という名への憎悪にも似た感情とでも言いうるだろうか。この著作に限らず「日本」という名に繰り返し疑義を唱え、その果て呼称としての「日本海」などにたいしても某国の反日本海呼称運動への無邪気な迎合という形で攻撃の眼を向けている。読む人の傾向がどうあれこのあまりの乖離になにがしかひっかかるものを読者は感じるはずである。
冒頭にも述べたように旧来の進歩史観に異議を唱え続けた筆者が最後にこだわり続けたものの一つが戦後思想という究極の進歩主義だというところが大いなる皮肉といえなくもない。

著書名 知識人とは何か (平凡社ライブラリー)
著者名エドワード・W. サイード
出版社 平凡社
ASIN 4582762360
装丁 単行本(ソフトカバー)
価格 ¥ 882
感想文概要:「権力=悪/弱者=善」というステレオタイプに乗っかった知識人論
本文:端的に指摘すれば、本書を通っているドグマは「知識人はどんな場合にも、二つの選択肢しかない。すなわち、弱者の側、満足に代弁=表象されていない側、忘れ去られたり黙殺された側につくか、あるいは、大きな権力をもつ側につくか。」(p61〜62)というものだ。サイードがとるのはもちろん前者である。そして、彼によれば、知識人というものは「なかんずく権力の側にある者や伝統の側にある者が語ったり、おこなったりしていることを検証もなしに無条件に追認することに対し、どこまでも批判を投げかける人間」(p49)であり「権力に対して真実を語ること」(第5章表題)をしなければならないのだという。

彼の指摘は半分は正しい。正しい半分というのは、知識人は「検証もなしに無条件に追認することに対し、どこまでも批判を投げかける人間である」べきであり、「真実を語る」べきであるということに対してである。正しくない半分というのは、批判をしたり真実を語る対象が一方に定められている点である。知識人は、相手が権力者であろうと弱者であろうと、要するに誰であろうと、無批判な追従はすべきでないし、自身の思惟に基づいて真実を語るべきである。
サイードの論の根本的な問題点は、「権力・伝統=力を持つ者=悪/マイノリティ=弱者=善」という、ステレオタイプな二項対立に固執してしまっている点にある。任意の議題に対して、権力サイドの主張が正しいか、それとも弱者サイドの主張が正しいかは、それは実際に双方の意見を聞いて、きちんと考えた上で下される結論のはずである。すなわち、権力サイドの意見も弱者サイドの意見もきちんと聞いた上でならば、知識人はいかなる結論をも下しうるわけであり、そこでたまたま権力サイドの主張の方が妥当性が高いと判断したところで、それはなんら問題ではない。
ところが、サイードは、双方の意見を聞いて自身の見解を出す前に、「先行して」弱者サイドの主張をそのまま自分の意見にしなければならないというのだ。

そして、彼に言わせれば、知識人が権力サイドの主張の方に妥当性を認めることは「迎合」「屈服」「何も考えていない」ということと同義なのだ。

以下は推測だが、サイードは、力によって目を曇らされない限り、思考力ある人間ならば誰しも自分と同じ結論に達し、同じ主張を行う、と信じ切っているのではなかろうか。
だからこそ、彼は湾岸戦争について「(前略)戦争と、それに付随する殺戮という目標を回避できたであろうべつの選択肢をしめすことこそ、当時、知識人が果たすべき責務であったのだ。」(p48)と言う。彼が何らかの思惟を経て湾岸戦争に批判的な見解を抱くのは自由である。しかし問題は、彼以外の知識人もまた、彼と同様の見解を抱かねばならないという点にある。

こうした知識人の最大の問題点は、自分たちのような「反=権力」「反=政府」の思想が知識人界においては圧倒的多数を占め、主流化し、力を握るようになっているにもかかわらず、その力の存在をひた隠しにし、自分たちこそは少数派、弱者であると言いまわっている点にある。今日のように、警察が権力批判者を刑務所にぶち込むことなど考えられない先進国では、知識人にとっての「権力」というのは、まさしく知識人の世界において自分の居場所をどれだけ安定させられるか、という点にかかってくる。そして、今日の知識人界がまさに「反=政府」で主流をなしている以上、まさしく「反=政府」的なサイドこそが権力サイドなのである。権力の側の主張を行うなとは言わない(これはすでに記した通り)が、自ら権力の座にいながら、他人を「権力の手先」と罵るのは愚劣極まりない。

概要:読んで人生が変わる若人もいるでしょう
本文:BBCの番組の原稿をもとに書籍化されたものらしい.哲学書を少し噛み砕いて一般向けにしたような内容である.「知識人とはなにか」ではなく「知識人(ほぼインテリと同義)はどうあるべきか」を中心に述べた本ではあるが,実業や統治を行なう立場の人は本書が論じる知識人からはほぼ除外されているようだ.教育者,研究者,作家が念頭におかれているように思える.知識人のあるべき姿の他には,歴史的な話や著者の経験に基づく話が色々と散りばめられている.中身は非常に濃く,内容もよい.ただし,読みやすさについての配慮(とくに予備知識不足に対する配慮)はほとんどない.

僕なりの言葉で本書の内容を解釈すると,著者が主張するあるべき姿とは,
・知的な面でマゾ的なまでに誠実である.
・エスタブリッシュメントを説得力をもって平然と批判する.
・専門家としての能力はおまけであり,幹の部分は内的な動機やアマチュアリズム.
・リスクを自分で背負う.
・非俗で抽象的なものに高い価値を見出す.
あたりになる.もう少しかいつまんで言うと「知的で一貫した言論により社会にフィードバック機能をもたらす者」あたりだろうか。僕はインテリの範疇には入るけど,著者が主張するあるべき姿をとれるほどの精神的な強さや知性があるかというと,そこまでの自信はない.著者の理想と僕の理想は近いものの,残念ながら今の僕は少々パワー不足のようだ.また,さらに残念なことに,著者が理想とする知識人の態度というのは,大抵は経済面や人事面で物凄く不利なのである.ただし,この不利益は充実した人生という意味では必ずしも不利とは限らない.

概要:知識社会化の進行で専門家が増えて知識人の居場所は狭くなる。けれども知識人は批判者、代弁者であり続けなければならない。
本文:知識人に踏みえを迫り、体制の批判者、虐げられたもの、忘れ去られた者の代弁者でなければ貴方は知識人ではないと訴えている本。確かに日本にはそういう知識人が昔から少ないし、今まさに死滅しつつある。また「専門能力が直接的な関心事の外にあることをみえなくさせ、人を特定の権威なり規範的な考え方だけに迎合させるp.127」という問題は知識人ならずとも心しておくべき。内容はとてもわかりやすくシンプルだが、根拠に取り上げている文献が膨大(丸山真男まで出てくる)、知識人はこれだけ幅広く本を読んでいるものなのか。知識人候補でない我々には、知識人でない「ただの知識の売人」の見解には敬意を表さなくて良いということが解るという点で読む意味がある本。

概要:知識社会化の進行で専門家が増えて知識人の居場所は狭くなる。けれども知識人は批判者、代弁者であり続けなければならない。
本文:知識人は、体制の批判者であり、虐げられた者、忘れ去られた者の代弁者でなければならないと訴えている本。確かに日本にはそういう知識人が昔から少ないし、今まさに死滅しつつある。また、「専門家能力が直接的な関心事の外にあることを見えなくなせ、人を特定の権威なり規範的な考え方だけに迎合させるp.127」という問題は知識人ならずとも心しておくべき。内容はとても解り易くシンプルだが、自説の根拠として取り上げている文献があまりに幅広い(丸山真男まで読んでいる)知識人はこれだけ沢山の本を読んでいるものなのか。知識人候補でない我々凡人にとっても、ただの「知識を切り売りする人=専門家」と、敬意を表すべき知識人を見分けることを教えてくれるという点で有益な本。

概要:知識人のあり方を通して自己のあり方を問う
本文:私とこの本の出会いのきっかけは、数年前にとある大学教授が退官にともなう記念に実施された最終講義にさかのぼる。その教授は、その最後の姿を見届けようと集まった教授や生徒を前にして、ご自身の生い立ちや研究とその成果を語り、講義の最後にこの本に触れ、この内容にいかに触発されたのか、そして退官後はこの本を基準として「周辺的知識人」になるために日本を飛び出して生活するつもりだと、具体的な人生設計までをも語っておられた。そして「是非みなさんも読んでいただきたい」と勧められ、講義は閉じられた。

その教授を知識人とするなら、私なんかはもちろん「知識人」と呼称されるに到底及ばない存在である。しかし、この本が投げかける数々の問いは、鋭く自分につきささったのも事実であるし、「知識人」と自認しなくても、これを通読した多くの人もそのような感覚を得たのではと思う。そして悩む。知識人はいかに存在し、誰をどのように表象するべきなのか、誰に向かって主張を訴え続けるべきなのか。特に、自国の犯罪行為には目をつぶって、他国の犯罪行為に対しては糾弾し断罪するというある意味「国際的な習慣」には、疑問をぶつけずに納得してしまっていいのか、「どこの国でもそれをしてるし、それが世界のやり方ではないのか、それが現実だ」として簡単に結論づけてしまっていいのか、との問いは「知識人」であるかあるまいかに関わらず非常に重くのしかかる。そしてそれは何も国際関係にこだわらなくても、普段の生活、社会、メディアといったマスのあり方にも限りなくリンクしているはずである。そして最終的に自己のあり方として直に問われることはいうまでもない。

大著「オリエンタリズム」を読み終えたときは、その迫力に圧倒され、歴史の積み重ねがもたらして突きつけた難題にある種の「絶望感」を抱いてしまった。それに比べてこの本はページ数も少なく読みやすいので、まずサイード入門編として手に取ることを万人にお勧めできる。それと同時に、自身の思考がどこかに迷いこんだときに、何か「原点」を照らしだしてくれるような書ではないかと思う。

著書名 「世間」とは何か (講談社現代新書)
著者名阿部 謹也
出版社 講談社
ASIN 4061492624
装丁
価格 ¥ 777
感想文概要:東西の個人と社会そして「自由・平等・平和」の成り立ち
本文:自分のなかに歴史をよむ (ちくま文庫 あ 4-3) は著者がヨーロッパ社会に興味を持ち、西洋中世史を志すようになった経緯をとおして、ヨーロッパ中世史を人間関係の変化から読み解いています。たとえば、なぜ自然科学や資本主義がヨーロッパに誕生し、発達したか。二つの宇宙(ミクロコスモス、マクロコスモス)の章では、なぜ中世人たちは、占星術を深く信じていたかや、神殿をめぐって「アジ−ル(避難所)」が語られます。唐突ですが、高校生が発した質問「鎌倉以降天皇の力が弱くなりながらもなぜ現代まで存続できたのか。」「なぜ、平安末、鎌倉という時代に優れた宗教家が多く現れたのか。」という問題に答えようとして、網野善彦は日本中世のアジ―ルについて「無縁・公界・楽(平凡社)」を書いたわけですが、この大きな質問は、この「無縁」原理がキリスト教会によって制度化され、ヨーロッパにのみ、なぜ自由・平等・平和の思想が生み出されたかということにつながっていきます。さて、人間関係といえば、人間と人間のあらゆる関係の総体を社会(society) と呼びますが、阿部氏は日本にはヨーロッパ社会と異質の、「世間」があることを指摘しました「「世間」とは何か(講談社) 」。日本の学者の大多数が日本社会を「社会」という言葉で論ずるとき、実際の日本社会「世間」とのずれを全く理解していないことを指摘しました。また、社会は、個人から成り立っていますが、日本おける個人のあり方とヨーロッパにおける個人のあり方は根本的に異なっています。ミッシェル・フーコーが指摘しているようにヨーロッパにおける「個人」の成立にカトリックの「告解」が深くかかわっていますが、阿部氏は、さらに中世人が告解をとおして「男と女の関係の問題」を「自覚」する中に個人の誕生を見たのです。(「西洋中世の男と女」筑摩書房)。

概要:世間は何かは人それぞれ
本文:社会と世間との違いはわかったが、現代一般に使われている世間の解体はされずに終わってしまった。

概要:「世間」は空気のように見えない、感じない
本文:*****

阿部謹也氏が亡くなった。享年71歳。

ドイツ中世史を専門とする阿部謹也は『ハーメルンの笛吹き男』で知られるが、
彼の名前が広く一般に知られるようになったのは『世間とは何か』が上梓
されたのちだろう。彼の「世間論」をアカデミズムは無視した。自身が「世間」
の住人である学者たちにとって阿部の指摘する「世間」は空気のようなものなの
で対象化できなかったせいだ。阿部を支持したのは、この日本社会が妙に生き
にくいと感じていた一般読者だった。

喫茶店で携帯電話を取り出し、大声でしゃべっている中年男性がいた。
高価そうなスーツ姿、滑舌の良い声で完璧な敬語を使っている。どこから見ても
経験豊富で有能な営業マンにしか見えない。取引先らしき相手への丁寧な対応は
模範になるようなものだった。しかし、すぐ周りにいる人間へのこの男の配慮は
ゼロであった。この極端な落差はいったいどこからくるのか。電話の向こうの相手
には常識をわきまえた適切な対応ができるのに、すぐ隣にいる人間への配慮が
どうして欠如してしまうのか。

この日本社会がなにやら生きにくい、周りの人間の言動が理解しがたいと普段から
感じることの多い人にとって『世間とは何か』『日本社会で生きるということ』は
必読書である。


概要:我々が生きる日本社会の特質
本文:本書は、ドイツ中世史を専門とする著者が、
「世間」という日本社会に連綿と息づく社会的特質を
様々な文献を手がかりとして描き出したものである。

既にレビューも数多く、書くべきところは殆ど無い。
よって、ここでは重複を避けるため私的感想のみを述べるに留まろう。
蛇足と理解しつつ、本レビューを読んで頂きたい。

思春期を迎え青年期に入るなり、若干の海外生活の経験がある私(ごとき)は、
日本で暮らす事にある「生き辛さ」を感じてしまった。
「自分が正しいと思う道を突き進め」などと、
「個人」を尊重した価値規範を基にのたまわれる口当たり美味な少年時代の教えは
現代日本社会においてはある種弊害となる。
実際には、正しいと思った事をこの場所で突き通すには覚悟と根性と才能が必要である。
何故必要なのか? 何故突き通せないのか? 
その答えが「世間」という日本社会構造の存在とその作用である。
詳しくは本書にて。

注記しておくが、
私はこの「世間」にある「生き辛さ」を感じてしまったが
著者も指摘するように、「世間」は「安心」も与えてくれる。
少年時代に教授された個人主義を典とする甘美な思想に酔いしれ、
青年時代の「生き辛さ」の大海においても二日酔い状態だった私だが、
成年時代の今では酔いも醒め、その「安心」の大海の漣に片足の踝程まで浸している。
盛年の盛りを取り戻すべく、今また酒を手に取りチビチビと盛っている(実際には下戸だが)。

概要:世間の謎
本文: 多くの実例を元に日本に残る「世間」というものを解きあかした名著。
 ある意味それは空気といってもいいかもしれない。
 いまだに日本人の間に残っている「空気を読め」という言葉などもそうだ。
 少なくとも日本人にはシロクロをはっきりつけるという意識は学者でもいまだに存在しない。
 罪をおかしていなくても疑われた場合世間を騒がせて申訳ないと謝罪しなければならない。
 特に後半の漱石を中心に分析した項は日本人がいまだに近代を迎えていないと痛感させられる。
 日本の自称近代人や自称西洋学者たちが見てみぬ振りをしようとしたものをまざまざと見せ付けてくれる。

著書名 仕事の報酬とは何か (PHP文庫)
著者名田坂 広志
出版社 PHP研究所
ASIN 4569670660
装丁 文庫
価格 ¥ 500
感想文概要:心に響きます
本文:「なぜ、そんなに一生懸命、働いてくれるのか?」
この問いに、社員は、どう答えてくれるのであろう。どきどきする。

自分は、社員に対して人生にとって大切な報酬を与えているだろうか?
目に見えない報酬を与えられているだろうか?

彼らの大切な時間、大切な人生を、会社に投資してくれているのであるから、この答えに是非こう答えてほしい。
「ええこの会社では、大切なものが得られますから!」と。

こんな言葉が返ってくるような経営をしたい、と心に響きました。

概要:独特な「書籍講話」で語りかけてきます
本文: この本は詩が書かれているのかと思うほど、大きな活字で短いセンテンスを連ねて書かれています。著者はそれを「書籍講話」スタイルと呼んでいます。確かに読んでみると、著者から読者へ、ひと言ひと言丁寧に語りかけています。「仕事の報酬」は、「結果として与えられる報酬」である「収入」や「地位」ではなく、「自ら求めて得るべき報酬」であり、それは「目に見えない報酬」であると。それは、「能力」、「仕事」、「成長」であると。その「講話」に引き込まれ、一時間もかからず一気に読み終えました。何か思うことがあるときに、何か大切なことを忘れてしまったときに、読み直してみたい本です。

著書名 新版 禅とは何か (角川ソフィア文庫)
著者名鈴木 大拙
出版社 角川学芸出版
ASIN 4044076022
装丁 文庫
価格 ¥ 740
感想文概要:
本文:

著書名 そもそも株式会社とは (ちくま新書)
著者名岩田 規久男
出版社 筑摩書房
ASIN 448006351X
装丁 新書
価格 ¥ 735
感想文概要:近年の経営の変化に対する評価の視点
本文: 近年、労働分配率の低下などを背景として、株主重視型経営への批判が聞かれるようになった。しかしながら、本書では、株主による経営の監視は、一定の条件の下で、企業価値の向上に効果があり、従業員の利益を保護する上では、むしろ外部の競争環境を確保していくことが必要であると指摘する。その上で、情報の非対称性にともなう株主の過剰な割引率を公正なものとしていくため、情報公開の重要性等が指摘される。企業活動の効率性を確保していくことの重要性を指摘するとともに、マクロの課題については政府の役割とされており、明確な政策割り当ての下に議論が展開される。
 本書では、株主重視型経営は、必ずしも企業特殊的人的資本投資を阻害するものではないことを指摘するが、それと同時に、従業員の勤続を通じて職業能力を高めていく経路も重要である。そのような観点からみると、雇用流動化は、企業特殊的技能の勤続を通じた蓄積効果を弱めるとともに、企業の投資意欲も低下させると考えられる。この論点についての著者の見解が必ずしも明確ではない点には、若干の物足りなさを感じる。


概要:株主に会社のオーナーシップがある理由
本文: 「会社とは誰のものか」.この問いに対し「株主」と答えるのに会社内の経営者・従業員にとって抵抗感があるのは想像に難くありません.本書は「株主が会社の全ての利益を総取りする」等と反発される株主主権論への誤解を解きほぐし,株主にオーナーシップがある訳を順々に説いていきます.
 重要なのは「交換」「誘因」「希少性」等の経済原則を用いて株主主権下でも従業員や長年培われた取引関係等への正当評価がキチンとなされ得ることを説明している点.すなわち,企業は従業員・取引先が企業取引を通じて得べき交換利益について意を尽くしかつ自らの付加価値を高めるため従業員にインセンティブを与えなければそもそも生き残れない存在であることを判りやすく説きます.むしろ,コアな従業員が主導権を握る「従業員主権」型企業においても自分たちのポストを確保する為に無理な多角化を図る等経営資源の無駄遣いが有り得ることを豊富な実例を挙げて示しています.ここにこそ健全な経営効率化のためには外部チェックが必要で,そしてその任に当たるのは無配・倒産リスクを抱え,リスク軽減の為に経営者の解任権等を与えられた株主が相応しい理由がある訳です.もし経営への介入を株主に認めないならば,先に挙げたリスクをそのまま背負い込まざるを得ない株主のなり手が減るため, 「希少性」の原則により企業の株式調達コストが高騰してしまう事が説得的に論じられています.
 株主,従業員,債権者等ステークホルダー間の関係がゼロサム関係ではなくもちつもたれつの相互依存関係にあることが良く理解でき,ともすれば観念的・感情論的に論じられがちな企業ガバナンスを実質的に議論する為に欠かせぬ1冊です.

概要:初心者には若干難しいところもあるけど
本文:私は、株式会社についての知識がほぼ0の状態で本書を読みました。筆者の主張とその主要な根拠に関してはクリアに理解できたものの、若干の細部はある程度の知識を前提にして書かれていたので、理解できない部分も少々ありました。それでも、この著者の著作は数多ある経済の入門書の中でも、格段の分かりやすさを誇るものばかりです。この本は株式会社についての知識が全くない私のような経済オンチにもお勧めです☆

概要:時代の流れに即した株式会社論
本文:本書は著者の御専門とは少しずれているようですが、それだけに
わかりやすく読める内容になっています。

アメリカ型企業統治、日本型企業統治について時代をさかのぼって
述べられた後、日本型企業統治について、肯定的・否定的両側面に
ついての考察があります。

筆者の結論としては、株式会社の主権は従業員ではなく株主にある
という、ある意味当たり前の結論なのですが、結論に至るまでの
議論のプロセスが本書の読みどころです。

これからの日本で企業の合併買収が盛んになることが予想されますが、
本書は議論の足場を作るためにも役立つ本であると思います。

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